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三河の住人の庵

三河の住人の庵

天正10年 家康伊賀越え

天正10年(1582年)

5月9日 穴山梅雪を引き連れて浜松を出立。
5月11日 岡崎
5月13日 池鯉鮒・鳴海を通過
5月14日 江州番場に宿泊

5月15日 安土城下 大宝坊を宿所とし 安土城にて信長と謁見。

信長へ 馬並びに鎧300領、黄金3000両を贈る。
馬鎧は受領されたが 黄金3000両は返され
これより ご上洛なさり見物をなさるべし 
この金子はその費用として 
進上するということであった。

明智光秀を饗応の奉行として もてなしは華美を尽くしたものであった。

15日・16日・17日と総見寺にて饗応が営まれ
明智光秀が饗応の任にあたった。

20日 城内高雲寺において饗応がなされた。
このときの奉行は丹羽長秀・堀秀政・長谷川秀一等であった。

5月21日 家康は 京都入り。

京では 茶屋四郎次郎の屋敷を宿所とした。
これも信長の指図であった。

この年の5月は小の月だったというから29日が晦日。
あくる日が 6月1日である。

5月28日 京を出立。

5月29日 家康一行は堺へ入り その夜は 松井友閑の宅で酒宴。
この日信長が京に入った。

6月1日は 朝 今井宗久の茶湯 昼 津田宗及の茶湯 
晩は松井友閑の茶湯。 その後は酒宴、妙国寺宿泊。
一方信長は京にて 茶会を催している。

6月2日 未明 本能寺の変

同2日未明 家康上洛の連絡に本田平八郎忠勝が京を目指して出発。

頃合を見て 家康も堺を出た。

平八郎は 枚方のあたりで 京より変報を告げに
堺を目指す茶屋四郎次郎と出会い そのまま引き返す。
河内飯盛山付近で 家康一向と出会った。

家康はここで 信長の死を知ったという。

ここから 家康生涯最大の危機「伊賀越え」が始まるのである。








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